箸は右手で持つ派

ちらしの裏

コロナについて

おひさしぶりです。

年始にコロナに罹った時に書いた記事が下書きにあったのでアップしときます。

 

いつかなるだろうなあ、とフワッと思っていたらなりました。コロナ。

 

1月6日のお昼に社員が突然体調不良を訴え早退。病院で検査をしたところ結果は次の日ということに。40度近い高熱がでていたらしい。

インフルであることを願うも、7日にコロナ陽性とわかり、こりゃ私も旦那もやばいぞ…と腹を括る。

まあインフルだったとしても大変なんですけどね。

狭い職場なので無条件に濃厚接触者に該当してしまう。

 

8日の朝旦那が熱を測ると40度近い高熱。やむを得ず昼過ぎに店を閉めてなんやかんやして夕方帰宅。

なんやかんやというのは社長にあれしてこれしてと言われ半分くらい私がやった。旦那すごいしんどそうだったから早く帰らせてほしかった。

この時点では私はなんの症状も出ておらず、割と元気でした。

が、9日の夜、全身がとにかく痛くなった。指の関節まで痛くて寒気が止まらず、大袈裟だが普通に死ぬかと思った。2年くらい風邪とかもひいてなかったので割ときつかった。

熱は38度とそこまで高くはならなかったですが、とにかく痛かったです。

指の関節まで痛むほどの辛い症状自体は三日間くらい続いて、痛くて疲れるので鎮痛剤を飲んでは寝て、痛くて起きるの繰り返しで気持ち的にも体力的にも辛かった。

 

運悪く三連休を挟んでいたので病院が空いておらず、市役所で無料検査を受けようと出向くも混んでいるので結果が5日後くらいになりますと言われ、じゃあ火曜日まで様子見て病院で検査した方がいいじゃん、となり兎に角市販の鎮痛解熱剤でやりすごしました。

この頃になると旦那は熱も下がり割と元気そうにしていました。

11日にやっとこさ病院へ行き、PCR検査を受けて、明日には結果出ますからね〜お薬出しときますね〜けど薬局には行かないで〜と哲学みたいなこと言われた。(?)

検査の結果が陰性なら普通に行って、陽性なら身内とかに取りにきてもらって、ということでした。しかも結果出たの2日後。

医療機関も忙しいから仕方ないよねと思いました。

こうして発症から5日目にして晴れて(?)正式にコロの者になったのでした。

 

各所で爆発的に増えていたので、なんか、どこでもらってても不思議ではないなあとは思っていたのですが、その矢先でしかも職場…狭いし人も少ない職場なのでクラスター状態に。

一時営業を自粛することになり、誰が悪いとかではないんですけどこういう時って割と余裕がなくなるものなんですね。毎日ただただ時間が無意味に過ぎていくことへの罪悪感がすごかった。普通に病んだ。

私はヒキニートをしていた時期がトータルで5年くらいあるのですが、その頃のことをすごく思い出した。あの頃の私どんな精神力で引きこもってたんだろう。

 

仕事に復帰してから数週間は体力がとにかく戻らなくて帰ったら死んだように眠って意味わからん時間に起きたり、匂いも味もしなかったりしましたが、今はなんやかんやでほぼ元通りの生活をしています。

 

本当はホテル療養だったらしいんですが、保健所の人とうまいこと連絡が噛み合わず…(私が寝てた)仕事復帰した日に知りました。

忙しいのにごめんなさい保健所の人。

旦那はホテル療養なんて一言も言われなかったのに!と言っていましたがどういう条件でホテル療養になるんですかね?

私は既往があるのでそのせいなのかもしれない。

義母と同居で尚且つ義母は替の効かない職業なのでうつってしまったらどうしようと思いましたがなんとかうつらずすみました。奇跡。

 

割と大変でしたが今は元気です。

おわり。

 

無意識

 

わたしは、他人の無意識で勝手に傷つく人間です。

勝手に傷ついた上に遠ざけたくなります。

 

昔から人の機微を気にしてばかりいました。他人が自分のせいで不快な思いをする事が自分の中で許せなかった。そうであってはならないと思っていました。

自分が一番めんどくさい。

 

よく言えば繊細、悪く言えば神経質なわたしですが、一人が嫌で常に誰かの声を聞いていないと落ち着かないさみしんぼな時期がありました。

今は一人が楽です。申し訳ないし、わかってもらえるとも思っていないから。だから人との関わり方が昔と比べてぐんと刹那主義になってしまった。もっと前はウェットでした。人から好かれたくて必死だった。

 

先日、弟から常軌を逸した事を言われてひどくショックをうけました。他言したりすることが憚られるし、忘れたいほどの内容なので伏せますが、倫理的に間違ってるな…みたいな内容です。普通の人ならもしそれをどんなに強く思っていたとしても本人には言わない。絶対。少なくとも私なら、言えません。本当にびっくりした。

本人もおかしいことは自覚していました。なのにそれをなぜ私に言おうと思ったのか聞いたところ、姉ちゃんなら笑って許してくれそうだったから。というのです。

 

ぶん殴られたような衝撃だった。

 

私は実の弟にそこまで軽んじられていたとは思わなかった。と私は感じたけれど、当の本人にとってはそれが信頼、安心できる相手という意味だったかもしれない。

けど、許してくれそうだからって理由でどう考えても常識の範囲外の事を言うって、よく考えなくてもものすごく失礼ですよね。その自信どこからきてるの。

 

そんな人の無意識に勝手に傷ついてたら生きていけない!と思われても、まあ仕方がないなと自分でも思う。

けど、夫と、中学生頃にネットで知り合った友人と、高校の頃からの友人、先輩。約5人はその、「無意識で私を傷つける発言」を一切しません。

そりゃ長いこと付き合いがあってお互いのことわかってるからでしょ!って思うでしょうが、私が覚えている限りでは関わりを持つようになってから今に至るまで本当にほぼありません。

その心地よさを知ってしまっているがゆえに、傷ついてしまう。もう大人なのだからという淡い期待を抱いては勝手に裏切られたような気持ちになるのです。

根本的に人が好きなので、いちいち傷つく。どうして私をそんなふうに軽んじてしまうの。

 

万人に愛されてえ〜無理だけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地獄

 

 

お久しぶりですね。

 

去年11月、母方の祖父が亡くなった。

私は通夜葬儀に参列した。祖父を弔うという理由ではなく、母を想ってのことでした。

兄は通夜にだけ来て、明日は仕事の都合が合えば来る。と言い、こなかった。

弟は、あの人のために悲しむ人なんぞ見たくないと通夜も葬儀にもこなかった。

 

私がまだ小学生の頃、祖母やダウン症の叔父へ怒鳴り散らす祖父を見たときから何かがおかしいぞこいつは。と幼心に思っていた。

 

11年前祖父が祖母を突き飛ばし、祖母は骨折してしまい入院することに。その間に調停離婚して祖父と叔父との二人きりの生活が始まった。

程なくして私の家に怒鳴り込んで来て

婆さんはどこだ、母はいないのか、お前は知っているんだろう。わしはそれを知る権利がある。わしはお前のところの墓にも毎年参っているんだぞ。などとほざいた。

 

その一年前くらいに私の両親は離婚しており、母とは連絡もまともにとれておらず、どこに居るかは知っていたが、もうお母さんは離婚して家を出た。行方など知らないと私は答えた。

そんなに恩着せがましくするのなら、墓参りなど必要ない、一生家の敷居を跨ぐな。母も離婚したのだからお前は他人だ。次に会うのはお前の葬式だ。というと豆鉄砲を喰らったような顔を一瞬だけして、また鬼のような顔をしてからわざと大きな音を立てながら帰っていった。

 

交わした言葉はそれが最後。

家が実家の真裏だったので見かけることはあったもののお互い声をかけることもなく月日が流れた。

 

正直訃報を聞いた時は、やっとか。と思った。自分のことをひどい孫だと思った。

けど、仕方がない。なんの思い出もない。祖父のことを何度思い出しても、顔を真っ赤にしながら怒鳴る姿や不機嫌そうに車を運転する姿しか思い出せない。

 

叔父は喋れない。楽しかったり、嫌だったりすると声を上げることはあったが。

たくさん遊んでもらった。ボールを持って公園へ行きたいと言うと、すっと椅子から立って玄関へ向かって、一緒に公園へいってくれた。

布団の上に座る叔父の傍へ行き声をかけると、私の手をつかんで脇腹をくすぐってきて二人きゃいきゃいと笑った。

人が話す言葉の意味はある程度理解できているように思う。

けど、祖父は叔父にひどい暴言を吐いたり、時には言うことを聞かないからと叩いたりもしていたし、喋れず意思の疎通が取れないからと障害年金を使って私腹を肥していた。

 

11年間触れず生きて私も大人になった。亡くなる一年前に祖父が胃潰瘍で入院してからは母が全て手続きして叔父は施設へ入った。

去年の夏、約10年ぶりに叔父にあった。すこし痩せていた。

久しぶり、私だよ。覚えてる?と声をかけると迷いなく私が座っていた隣の椅子に腰をかけて親指の下の方で自分の頬を擦ったりトントンと叩いた。叔父のくせのようなもので、話しかけるとしきりにそうした。懐かしい気持ちになった。叔父の10年を思うと涙が出そうだった。偽善っぽいけど。

掃除の行き届いていない埃っぽいダイニングで席について毎日同じ新聞を何度も何度も読んで、祖父がでかけると言えばそれについて行き、時には家に1人置き去りにされて、祖父は飯炊ババアの家へ泊まりに行ったりしていたらしい。

 

施設へ入ってからも、作業所へ行くことはいくが作業はせず、部屋の中で新聞を何度も読んでいたらしい。新聞は、叔父の唯一の友だったと思う。

けれど、顔を見に行った一か月後くらいに作業もちゃんとするようになったらしい。その時に祖母と母と一緒だったのだけれど、祖母はは叔父に、

ちゃんと作業しないとだめよ。働かないと、ご飯本当は食べられないのよ。

と言っていたからその言いつけを守るために叔父の中で新聞との折り合いをつけたのかもしれない。

それから他の施設の利用者さんたちと仲良くなり、お友達も増えて楽しくやっているらしい。

 

11年と言う長い月日が経って、なんというか、戦いが終わったあと色々なものを失って、これからどうしていくか考えさせられるような。

そんな気持ちになったのでした。

 

きっと私この先の人生、母方の祖父よりも畜生なジジイと出会うことはないと思う。

異常なほど自己愛が強くて外面ばかり良い人だった。きっと今生きて再開していたらムカついてぶん殴っていたでしょう。だから、これで良かったのだと思う。

 

祖父の家から出てきた日記の中の一つに、エンディングノートというおそらく胃潰瘍で倒れた際に病院から支給されたであろうものが出てきて、そのノートの最後のページに、自分が死んだ後誰かに何か言いたいことは?という欄があり、そこには母に宛てて、〇〇(私)は体が弱いから気がかりです、幸せにしてやってと書いてあった。

どの口が言ってんだと思った。勝手に幸せなるよ。

 

後にも先にも私を可哀想という人間は祖父しかいないと思う。

家族って絆に見えて呪いであることもある。

母も祖母も叔父も相当な苦労があったと思う。

私も、当時は高校生で思春期真っ盛りだったので祖父と同じ血が少しでも流れていると思うと穢らわしく思えてたまらなかった。

 

歳を重ね、人と別れて、自分は生きていくんだなぁ。

 

痛いよ親知らず

 

つい先日右下の親知らずを抜きました。

年明けすぐに左下を抜いていて親知らずの抜歯経験済みで覚悟はしていたのですが、まぁこれが痛いこと。

両の親知らず共に真横に生えており、バカデカくて神経にかかっていたので、かかりつけの歯医者さんに「これうちで抜けないから口腔外科で抜いてきて」と言われ…

そもそも何故抜くことになったかっていうと、疲れたり具合が悪くなるたびに親知らず周辺の歯茎が腫れて痛くなっていたんですよね。

 

抜くの二回目だったのに抜歯中めちゃくちゃ震えました。一回目も怖かったけど、一回目の方が落ち着いてた気がする。

だって何されるかわかってるし、怖いよ。音とかダイレクトに聞こえるのが怖いです。ミシミシ、パキパキって。それが30〜45分くらい続くんですよ、麻酔が効いているから痛みはないものの精神的にクる。

わたしを落ち着けるためか、助手さんが突然食器洗いの話とか始めるし。もうちょっと他の話なかった?いやまあわたしヴーとかンーとかしか喋れないから関係ないんですけど…先生のお家、食洗機あります??みたいな話突然されてちょっと笑いそうになった。

 

親知らずの抜歯後って口内環境めちゃくちゃになるんですよね、糸に汚れがついて臭うし、血とか変な液(臭い)とか出てくるし、ズキズキするし、なのにうがいするなって無理があると思いませんか?

そろそろ人間進化して親知らず完全に生えてこなくなればいいのに。いらないじゃん。

抜いて3日目がピークでした。痛くて泣いた。痛みに強い方だと自分で思っていたのに。

 

左側でしか物を食べられないので食べすぎないのが唯一の利点です。腹八分目を知らぬ女なので毎回お腹はちきれそうになるまで食べてしまっていたので、あとよく噛むのでお腹いっぱいになるのが早いです。なのに体重測ったら増えてました。

なんでなの。

 

 

 

お父さんと保険証

 

わたしはお恥ずかしながら、お父さんの扶養内の保険に入っています。

 

扶養内じゃなかったのは、新卒で働いていた一年くらい。

色々な事情で仕事を辞めることにして、国民保険に切り替えることを考えていたら父から入るよね?と言われそのままずっと扶養内でした。

しばらくニートで自堕落な暮らしでしたが、当時付き合っていた恋人と別れて今の人と一緒になってほどなくして彼の職場で働かないかと声をいただきアルバイトと言う形で一応社会復帰しました。

 

そのとき切り替えればよかったかもしれません。けど父は別に切り替えろ、とも言いませんでした。

それは父なりの優しさだったのかも。扶養内だと稼げる金額に限りがある。無理はするなと言われていたのかも。

 

私は高校生へ上がるくらいに両親が離婚しており、3人兄弟全員父が親権をとりました。

正直なところ私は父に対してめちゃくちゃフラットな気持ちしか持てず、本気で好きでも嫌いでもなかったんですよね。あまり家にいて構ってもらった覚えがなかったからかもしれません。

今は3人も子供みてくれて、色んなこと文句一つ言わず助けてくれて感謝と尊敬と申し訳なさばかりです。

 

ついさっき、保険証を取りに来てくれて渡したら、なんか寂しいなぁとこぼすものだから。

年取ったなあと、泣きそうになりました。

そんなこと、本当に言う人じゃなかった。

 

と、これを書きながら私は泣いている!

これからは手がかからないようにしなくちゃなあ。

明日の今頃にはもう、苗字が違うんだなと考えるとすっごい寂しい!!!笑

 

 

ファーストインプレッション

 

はじめまして。

 

noteを書いていたんですけど、いくつか書いてなんかここはちげーなと気づいきました。

 

 

私が何者かといいますと明日から人妻になるただのオタクです。

とにかく私は頭の中がうるさくて神経質なのでどこかしらでアウトプットしないと整理できないし、パンクしてしまうということに最近気付いた。

 

そのためのツールにツイッターやインスタはめちゃくちゃ不向きなんですよね、個人的に。

リアルタイムで投稿を見ると、相手を近く感じるからなのか、どうしたのか気になって反応を送りたくなるものだと思うんですよね。

そうなってくるとわたしは心配してもらっといて、正直そこで説明するのも面倒だな…と思ってしまうし、恥ずかしいし、気にかけさせてしまって申し訳なくなる。

 

例えるならば、雨に濡れて帰ってる途中に濡れるからと傘を貸してくれようとする相手の申し出を思わず断ってしまうような。

道端で泣いてしまって、声をかけてくれた人に対してなにも説明する気が起きない、みたいな。

 

じゃあ、傘を持ち歩けよ!とか道端で泣くなよ!とか言う声が聞こえてきそうですが。

すまん、私は傘を貸してくれようとする申し出は断りたくなるし、泣きたくて泣いているわけではないので声をかけて欲しいとは思っていない。

とても気持ちはありがたいんですけど、ありがたい以上に他の気持ちが先行してしまって上手く受け取れない。かわいくねぇ女なんですよ。話は聞いて欲しい、けど心配はしなくても大丈夫。

 

そんなかんじ。

上手く使っていけたらなと思います。

面白いこととかは言えません。